大峯審神者会信条
普通では解決出来ない悩みや苦しみを背負って
頼って来る人々を神様の御信託に依って
その苦しみから解放する能力を培う
オタズネとは
大峯審神者会に所属し、シャーマンとして
守護神と繋がりながら、皆様のお悩みや疑問に
対してオタズネをしてお伝えする事です

大峯審神者会とは
金剛蔵王権現様を守護神として
認められたものだけが修行に入ることができ
金剛蔵王権現様にお伺いをたてて、判断していただきます。
結果霊障や生霊や念などがありましたら、
指示をいただき供養させて頂きます。
修業も含め、全てが門外不出の秘法の為一切口外は出来ません。
お金儲けの為のものでは無く
人を救う為のものであるため
費用も一律に決められており
普通では考えられないような料金になっています。
先生も偽霊能者が居なくなり被害が減ることを願っておられます。
金剛蔵王大権現
金峯山寺の御本尊である金剛蔵王大権現は、
およそ1300年前に修験道の御開祖である役行者神變大菩薩によって感得された権現仏です。
その感得をされた際の様子を寺伝では次のように伝えています。
役行者は、全国の霊山を御開山になった後
熊野から大峯山脈の稜線伝いに吉野に修行されること33度を重ねられ
最後に金峯山(大峯山)山上ヶ岳の頂上で、一千日間の参籠修行をされました。
苦しみの中に生きる人々をお救いいただける御本尊を賜りたいとの役行者の祈りに応えて
先ずお釈迦如来、千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏がお出ましに成られました。
役行者は、その三仏の柔和なお姿をご覧になって
このお姿のままでは荒ぶ衆生を済度しがたいと思われて、さらに祈念を続けられました。
すると、天地鳴動し、山上の大盤石が割れ裂けて
雷鳴と共に湧き出るが如く忿怒の形相荒々しいお姿の御仏がお出ましに成られたのです。
この御仏が金剛蔵王大権現で、役行者はこれぞ末法の世を生きる人々の御本尊なりと
そのお姿を山桜の木にお刻みになってお祀りされたのでした。
これが、金峯山寺の始まりであり、修験道の起こりと伝えられています。
権現とは、神仏が姿を変じてお出ましになった仮のお姿という意味です。
金剛蔵王大権現は、役行者の祈りに応えて最初に現れられた釈迦・観音・弥勒の三仏が
柔和なお姿を捨てて、忿怒の形相荒々しいお姿となってお出ましに成られたものです。
大変恐ろしいお姿ですが、慈悲と寛容に満ちあふれたお姿と言われます。
全身の青黒い色が、その慈悲と寛容を表しています。
まさに怒りの中にも全てを許す「恕(じょ)」のお姿なのです。
慈愛に満ちた父母の怒りに似たお姿ともいえるでしょう。
役行者
修験道の開祖と仰がれる役行者は
我が国の正史の一つである続日本紀の文武天皇3(685)年5月24日の条に記される実在の人物です。
寺伝では舒明天皇6(634)年正月元旦に
葛城上郡茅原の里(現在の御所市茅原)にお生まれになり
幼少の頃から英邁利発で、当時の世相を慨嘆せられ
葛城山(現在の金剛葛城連山)に入って御修行になり
続いて全国の霊山を御開山になった後
熊野から吉野大峯の山々に入って修行され
最後に大峯山山上ヶ岳で一千日の参籠修行をされました。
その結果、金剛蔵王大権現を感得されて、そのお姿をヤマザクラの木に刻んで
山上ヶ岳と山下の吉野山にお祀りされました。
それが、修験道と金峯山寺の始まりとされています。
大宝元(701)年6月7日に、箕面の天井が岳で昇天されたとも
天竺に渡られたとも伝えられています。
その没後一千百年にあたる寛政11(1799)年に時の光格天皇様より
神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を賜っています。
金峯山寺様より掲載の承諾をいただき掲載しております
修行
大峯審神者会の最初の修行は、それほど難しくはありません。
毎日、法華経の中の特定のお経を唱え続けます。
100日間、毎日欠かさず唱え
一回唱えるのに最初は1時間ほどかかります。
慣れてきても45分から50分は必要です。
これで第一段階が終了します。
しかし、一日でも休んでしまうと
最初からやり直しとなり再び100日間通読しなければなりません。
次の修行へ進めるのは、全体の約3割ほどとされており
決して多くはないと聞きます。
次に、毎日のお勤めが始まります。
三世護身の柵を開き、ご挨拶をしてマントラを
唱え金峯山勤行儀を読み進めます。
さらに、門外不出の秘法の祝詞を100日間毎日100回通読します。
これも、一日たりとも休むことは許されません
最初の修行では、過去の嫌な思い出が蘇って苦しくなったり
ある部分だけ声が出なくなったり
視界がぼやけたりすることがあるなど
精神的にも肉体的にも非常に厳しいものです。
さらに、二回目の修行はこれ以上に辛いとされています
しかし、修行はまだまだ続きます。
まさに、日々修行の連続です。
